2021.05.01
ハイドロカルチャーの歴史(1) 土を使わない植物栽培
室内緑化の歩み
メンテナンス
ハイドロカルチャー
ハイドロカルチャーの歴史に関わる3つの要素
観葉植物のハイドロカルチャーは、その歴史を紐解いていくと、大きく3つの要素に分かれます。この3つの要素の成り立ちは全く別々なものでしたが、ある時を境に一つに結びつきます。
その3つの要素とは、
1)植物と水耕栽培の仕組みの解明と技術開発の歴史
2)植え込み材となるレカトンの成り立ち
3)観葉植物の普及の歴史
です。
これらの3つは歴史的には元々別の次元で動いていました。
しかし、これらが1970年代に一つにまとまり、ハイドロカルチャーの観葉植物が出来上がりました。つまり、もともと計画されて作られたものではありません。しかし、偶然的というよりはより良い栽培方法を求めるうちに、半ば必然的に出会った仕組みと言えるかもしれません。
それでは今回はまず、植物と水耕栽培の仕組みの解明と技術開発の歴史についてお伝えしたいと思います。
水耕栽培の起源 バビロンの空中庭園
そもそも、人はいつから土を使わず、植物の栽培を試みたのでしょうか。水耕栽培の起源については以下の2つが有名です。
1:バビロンの空中庭園
バビロンは、紀元前18-6世紀ころのメソポタミア地域の王国でした。
現在のイラクの首都から南へ約90kmのところに位置し、壊れた泥レンガの遺跡が残っています。2019年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
聖書ではバベルと呼ばれており、バベルの塔の物語は私たち日本人でも知っている人は多いと思います。
バビロンの空中庭園には巨大な階段状の庭園と潅水設備があり、様々な樹木や植物が植えられていたとされています。しかし、現在確認できる遺跡にその形跡はなく、古代世界の7不思議の一つに数えられています。水耕栽培の可能性は感じられるものの、これを裏付ける科学的根拠はまだ見つかっていません。
出展:ウィキペディア「バビロンの空中庭園」 より
水耕栽培の起源 アステカのチナンパ
チナンパは、沼地の表面の厚い水草層を切り取り、敷物のように積み重ねてつくった浮島の上に湖底の泥を盛り上げて作った湖上の畑のようなものを利用する農法です。
チナンパは フローティングガーデンとも呼ばれ、かつてのアステカ文明の首都であるテノチティラトンの周辺(現在のソチミルコ)で行われていました。
チナンパは絶えず灌漑され、多くの収量が得られたといわれています。チナンパの跡地からは豆、カボチャ、サンザシ、ウチワサボテンなど、多くの種類の作物を栽培した痕跡が見つかっています。現在でもメキシコで行われている農法です。
ただ、根は水に浸かるものの、植物でできた浮島は、水草と泥でできている為、現代のような水耕栽培の基準とは異なります。
また、チナンパの四隅には、成長の早い柳が植えられ、柳の根が川底に根を張り、チナンパは固定され、やがて埋立地のようになっていきました。
出展:ウィキペディア(英語版)「チナンパ」 より
チナンパについて おすすめ動画
チナンパについて、詳しくご覧になりたい方は以下の動画がおすすめです。
VIDEO
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古代から現代に渡って、農耕文化が受け継がれているのが良くわかると思います。
また、現在のハイドロカルチャーの形とは異なりますが、太古の昔から繋がるルーツを感じます。
この他にも古代エジプトのヒエログリフには、ナイル河の河岸沿いに土壌によらないで成長していた植物があったことが記されていますが、確固たる証拠はありません。
しかし、原始的ながらも水耕栽培と呼べる仕組みは、古代からあったと考えられます。
これらの具体的な栽培方法の仕組みや理論は、17世紀から18世紀の科学の発展により解明されていくのを待つことになります。
土を使わない栽培研究の始まり
古代の農法や伝説はあれど、実際に研究と呼べるものが始まったのは、17世紀頃からになります。
1627年にフランシス・ベーコンによる著書、森の森(Sylva Sylvarum)が出版されました。
この本が水栽培について、土壌なしで陸生植物を育てることに関する最も初期の出版された作品と言われています。
イギリスの哲学者・科学者であったフランシス・ベーコンは水栽培実験を行い、土壌は植物を支えるだけであると考えました。
哲学者として「帰納法」や「イドラ」を説き、「知識は力なり」という言葉が有名ですが、フランシス・ベーコンは、自然の探求によって自然を克服し、人類に福祉をもたらすことを考えていました。
光合成研究のはじまり
ベルギーの科学者だったヤン・ファン・ヘルモントは、質量を測定した一定量の土を鉢の中に植え、そこに同様に質量を測定した柳の苗木を植え、水だけを与えて5年以上にわたって観察しました。
その結果、5年間で柳は164ポンド(現代の単位に換算して70kg)も増えたにも関わらず、土の量はわずか(同100g)しか減少していない事を発見しました。
植物が水によって出来ているからこそ、これだけの生長ができたと結論付け、1648年に著書が出版されました。
ただ、この時はまだ植物が空気からの二酸化炭素と酸素も必要とすることには辿り着けていません。しかし、これが光合成の仕組みの解明の大きな一歩だとされています。
また、ファン・ヤンヘルモントは、木炭の燃焼実験を通じて「ガス」という概念の考案した最初の科学者です。
土壌の栄養素の発見
1699年には、イギリスの博物学者であるジョン・ウッドウォードが、さまざまな水(非純粋、蒸留)で栽培されたスペアミントを使用した「水耕栽培」実験を発表しました。
彼は、純度の低い水で育てられた植物は、蒸留水で育てられた植物よりもよく育つことを発見し、土壌には植物の成長のための栄養源があると結論付けました。
二酸化炭素吸収の発見
1804年、スイスの植物生理学者、ニコラ・テオドール・ド・ソシュールは、ソラマメを土ではなく石で育てて実験しました。
ソラマメは普通に生長したため、植物は二酸化炭素を土や根からではなく空気から取り入れ、植物は水と土と空気から得た無機物と化学物質によって構成されていることを明らかにしました。
光の存在下で二酸化炭素と水が緑の植物によって固定炭素(ブドウ糖、植物の食物など)に変換されるという考え方は、その後の光合成の基本的な全体的な化学反応式の完成を可能にしました。
化学的な養分栽培法の確立
1860年、ドイツのヴュルツブルク大学植物学教授だったユリウス・フォン・ザックスは、水に溶けて植物を生育させることができる養分液の標準的な処方を発表しました。
これが「養分栽培法」(Nutriculture)の起源で同じ技術がいまも、植物生理学と植物 養分研究の実験室で使われています。
これらの研究の結果、植物の根を窒素(N)、リン(P)、イオウ (S)、カリウム(K)、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)の塩基化合物を含む水溶液に浸せば、植物は生育するということが証明されました。
水耕栽培の確立
1930年代、カリフォルニア大学のウィリアム・フレデリック・ゲーリッケ博士は、実験室での実験を基に、屋外で実際の作物を大規模な商業ベースで養液栽培しました。水と栄養素のみを使用して、裏庭で高さ25フィート(約7.5m)のトマトのつるを栽培したのです。
ゲーリッケ博士は、初めて Hydroponics(水耕栽培)という言葉を使い、「水耕栽培の父」 といわれています。
また、水耕栽培の栽培基盤については、小石やバーミキュライト等、不活性で植物が正常に生長するものと定義されました。
砂礫水耕栽培法ともいわれます。
当時の貴重なフィルムも残っていました。
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1930年代にタイムラプス映像が出てくるのもちょっと驚きです。
農地が無い場所での栽培
1900年代に入ると、第二次世界大戦の影響で、水耕栽培の発展が加速しました。飛行機等により長距離移動が増加していく一方で冷蔵や冷凍・輸送技術は未発達で、移動先で安定的に食べられる新鮮な野菜の開発が水耕栽培によってすすめられたのです。特にアメリカでは第二次世界大戦時中の生鮮野菜の確保が課題でした。太平洋の浮かぶ島々は溶岩やサンゴでできており、畑には向かない土壌でした。そこで大きな櫓を作り、その中に不活性な砂礫や溶岩の砕石を入れ、栽培養液を溜めて流すのを繰り返す方法が取られました。
ハワイの西に浮かぶ、ウェーク島では、120平方フィート(11m2)しかない場所でしたが、生産が軌道に乗ると、1週間でトマト 30 ポンド(約13kg)、サヤエンドウ 20 ポンド(約9kg)、スイートコーン 40 ポンド(約18kg)、レタス 20 株に及びました。
南大西洋、南アメリカ大陸とアフリカ大陸の中間に位置するアセンション島(現イギリス領)でも、水耕栽培がおこなわれた写真が、アメリカ国立公文書管理局に保管されていました。
アセンション島
また、火山岩に覆われたアセンション島では、現在でも近代的な水耕栽培設備で新鮮な野菜づくりが行われています。
現在でも最大700人分の野菜を生産できるそうです。
世界最大の野菜工場が終戦間もない日本にありました
終戦後の1946年(昭和21年)には、日本では現在の調布飛行場に当時世界最大の水耕栽培農場が建設されました。先にご紹介したアセンション島と同様に、コンクリート製の櫓を作り、その中に砂礫を入れ、底面に水を溜めて流す方法です。当時の日本には、生野菜を食べる習慣はなく、進駐軍の為にリーフレタスなど6種類の野菜が栽培されました。この施設では1961年まで15年間野菜を作り続けました。
また、メリーランド大学のアーカイブに、貴重な資料がありましたのでご紹介します。
1949年(昭和24年)の水耕栽培農場
ラファイエット大学によるラファイエットデジタルリポジトリには、1949年(昭和24年)に撮影されたカラーのスライドがありました。記録には東京近郊(Hydroponic Farm near Tokyo)1949年となっていますが、調布飛行場の農場で撮られた写真に間違いないと思われます。
ハウスの中で栽培されているものはキュウリに見えます。
水耕栽培と観葉植物
米陸軍の特別水耕栽培部門によると、様々な地域で軍事用に栽培された農産物の合計は1952年には800万ポンド(3628トン)にもなりました。
一方で、コンクリート製の櫓からの不要成分の溶出や金属配管の腐食等、デメリットもあったようです。現在はLED照明や耐食性のある樹脂部品等が利用され、植物工場として進化し続けています。
水耕栽培の成り立ちは、主に食に関わる部分で発展してきたことが分かります。
しかしまだ、レカトンや観葉植物が水耕栽培と出会うのには、まだ時間が必要です。
この時点では、まだレカトンをハイドロカルチャーに使うというアイデアは生まれていませんでした。そしてこのアイデアは、アメリカではなくスイスで生まれたのです。
ハイドロカルチャーの歴史(2)では、植え込み材の代表であるレカトンがどのように誕生したか、その歴史についてお伝えしていきたいと思います。